2009年06月16日

受診が推奨される診療科

花粉症の治療を受ける場合に適した診療科は耳鼻咽喉科であるが、近年のアレルギー増加にともない、たいていの医師は一定レベルの知識を有している。よって内科などでも充分な治療が受けられることがある。小児の場合は、慣れているという点で小児科のほうがよいことがある。同様に妊婦および授乳婦の場合は、産婦人科のほうがなにかと融通がきくことがある。

ただし、症状がひどい場合は、その部位の専門医にかかったほうがいいとはいえる。すなわち鼻や喉の症状であれば耳鼻咽喉科、目の症状であれば眼科、皮膚症状がひどい場合は皮膚科が適する。これらの診療科の標榜とともに、アレルギー科の標榜がなされていると、なおよいといえる(一般にアレルギー科単独で標榜していることは少ない)。ただし、アレルギー科を標榜している医療機関に必ずアレルギー専門医がいるとは限らない。アレルギー専門医を調べるには、日本アレルギー学会や日本アレルギー協会に問い合わせるとよい(アレルギー学会のサイトにて調べることもできる)。

なお、自治体の保健所などが相談体制を整えつつあるので、まずはそこで相談するのもよい。

治療は目的や方法によっていくつかに分けることができる。
ボディビルディング
芸術
原子力工学
グラフィックデザイン
楽譜
インダストリアルデザイン
太陽系
マラソン
風水
北海道
肥満
インディアカ
核医学
ゴルフ
性行為感染症
ポリマー
デング熱
電子工学
色素性乾皮症
農業工学

対症療法と根治療法
一般に花粉症の各症状を抑えることが目的のものは対症療法と呼び、花粉症そのものの治癒を目指すものは根治療法と呼ぶ。医療機関における各種の薬剤治療(薬物療法)は対症療法であり、現在のところ確実な根治療法は開発されていない。唯一、減感作療法が根治療法にもっとも近いものといえる。
投与期における分類
症状が出る前から予防的に薬を服用するなどのことを初期治療(療法)または予防、季節前投与と呼び、症状が出てからも比較的コントロールできている状態に維持すること保存的治療または維持療法などと呼ぶことがある。いったん症状がひどくなってしまった場合、その症状を押さえ込む治療を導入療法と呼ぶこともある。医療者側からみた分類といえる。初期治療を受け、花粉が飛散する前から薬の内服などをすると症状が出にくく、出ても軽くすむことは実証されている。スギ花粉症のシーズン前には、飛散開始時期の予測が出されるので、それを目安に2週間程度前に受診し、適切な薬の処方を受けて使用をはじめるとよい。症状がひどくなると炎症を抑えるのが難しくなる傾向があるので、予防ができなかった場合でも、できるだけ軽いうちに受診したほうがよい。
メディカルケアとセルフケア
薬の処方を受けるなど医療機関における治療(メディカルケア)とは別に、患者自身が生活上さまざまなことに気をつけると発症を遅らせることができたり、軽く抑えることができる。こうした患者自身ができる対策をセルフケアと呼ぶ。多くはアレルゲンの回避と除去が目的であり、考え方によってはもっとも重要な治療といえる。薬局・薬店において市販薬(大衆薬)を購入して使用するのはセルフメディケーションというメディカルケアであり、かつセルフケアでもあるといえよう。

2009年05月30日

徳大寺家

徳大寺(とくだいじ)家は、清華家の家格を有する公家。江戸時代は同志社大学の構内にあった。藤原氏北家の閑院流で西園寺家や三条家とは兄弟筋にあたる。家紋は木瓜花菱浮線綾を使用。笛を家業とした。維新後侯爵となり、その後公爵に陞爵。
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藤原公実の四男実能を祖とする。平安時代末期、左大臣時代の実能が衣笠山の西南麓を所有した別邸を営み、その中に持仏堂を建て徳大寺(得大寺)と命名。これが後に家名となった。後にこの別邸は細川勝元に譲られて龍安寺の元となった。

徳大寺公英は美術評論家として有名。なお自動車評論家の「徳大寺有恒」はペンネームであり、本項の徳大寺家とは全く関係が無い。

2009年04月27日

各軍の損失

ポーランド軍の死者数は66,000人、負傷者133,700人、捕虜となった者694,000人。損失は戦車132両、その他の車両300台、航空機327機(そのうち戦闘機118機)、駆逐艦1隻、機雷敷設艦1隻となっている。

ドイツ軍とスロヴァキア軍の同盟軍の死者数はあわせて16,343人、負傷者27,280人、行方不明320人、捕虜となった者は解放されたためその数は記録されていない。損失は戦車300両、その他の車両1,000台、航空機は最大で141機、機雷敷設艦1隻となっている。

ソ連の死傷者数、負傷者数は不明、捕虜となった者は解放されたためその数は記録されていない。損失は戦車42両が破壊され、戦車数百両が故障で使用不能となった。

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犠牲となった市民
ポーランド侵攻は、戦闘中や戦闘後に殺された市民が多く、ヨーロッパで行われた最も犠牲の大きな全面戦争の一つであった。侵攻開始直後からドイツ空軍は民間人や避難民の行列を攻撃対象にして凄惨な損害を与え、ポーランド軍後方の通信を混乱させた。このような無差別攻撃は9月1日午前4時からのヴィエルニ空襲が最初で、このヴィエルニ市への攻撃ではドイツ空軍によっておよそ1,200人の民間人が犠牲になった。最終的には、戦闘での直接の犠牲者とは別に、国防軍と親衛隊は何万人ものポーランド人捕虜と民間人に対する大量虐殺を犯したとされている。

また、 タンネンベルク作戦によって、国防軍、親衛隊、自衛団(ドイツ系ポーランド人で構成され、メンバーは戦前から編成され、ドイツでゲリラ戦の訓練を受けていた)の他、特別行動部隊 (Einsatzgruppen) という特別部隊もあわせてドイツ人のあらゆる武装組織が、作戦開始時の1939年8月から1939年10月までに約760箇所でおよそ20,000人のポーランド人の民間人、主に知識層、芸術家、社会的指導層に属する人々を銃殺した(そのうち2,000人はドイツ国籍を持ちドイツに住んでいたポーランド系ドイツ人で、彼らは開戦前の1939年8月中に殺害された)。タンネンベルク作戦は1939年5月から計画され、ポーランドに住んでいるドイツ系ポーランド人(主に自衛団員)もこの計画に協力して、総計61,000人にも上る「ポーランド人徴集者リスト」 (Sonderfahndungsbuch Polen) が作成され、殺害はこのリストに則って実行された。ヨーロッパにおける第二次世界大戦の全期間を通じてドイツは占領下のポーランドでハーグ陸戦条約やジュネーヴ条約といった戦時国際法に明確に違反する様々な戦争犯罪を犯したが、タンネンベルク作戦におけるポーランド人大量虐殺事件はその最初の事例の一つとなった。

また1939年9月3日、ビドゴシチ(ドイツ名ブロンベルク)市内を通過して退却するポーランド軍部隊の兵士や近くにいたポーランド人住民に対して、ドイツの第五列構成員と思われる反乱分子が建物の屋根や教会の塔から銃撃してきた。開戦前のポーランドではドイツ系のポーランド人民間人が銃などの火器を所持することは厳重に禁止されていたが、ドイツ系住民はドイツ本土からの潜伏者を通じて、大量の銃砲を密輸し秘密裏に保持していた。この銃撃に対応して、ポーランド側の兵士や民間人は、反ポーランド破壊活動に参加していると疑われるドイツ系ポーランド人住民の家々を捜索し、私刑を行った。犠牲者の中には女性や未成年者も含まれていたとされている。このときビドゴシチ市内で殺害されたドイツ系ポーランド人住民の数は223人から358人の間と推定され、郊外の村々ではさらに多数のドイツ系住民が殺害されたとされるが、当日はビドゴシチとその周辺でドイツ空軍による激しい無差別攻撃が行われていたこともあって、この事件単独の正確な犠牲者の数はいまだ不明であり、この日のポーランド側の対応による直接の犠牲者は現在でも議論の対象となっている。この事件について、ドイツ側は犠牲者の数をまず5,000人と発表し、これもすでにかなり誇張された数字であるが、その後も国内外へ向けての反ポーランドプロパガンダ政策推進のためその数字をさらに大幅に誇張して58,000人とし、最終的には60,000人以上として宣伝した。ドイツはこれを公式にブロンベルク血の日曜日事件と名づけた。

それから1週間後の9月9日から9月10日にかけて、実際は先週の事件より大規模となった「もう一つのブロンベルク血の日曜日事件」がビドゴシチ市で起こった。この両日、すでに市内に入城していたドイツ軍は9月3日の事件の報復と称し市内や周辺の各地でおよそ3,000人のポーランド人を無作為に選んで広場で銃殺するなどの様々な無差別殺人を行った。当時市内にいたイギリス人の目撃談によると、最初に殺害されたのは12歳から16歳までのボーイスカウトのメンバーの子供たちで、彼らは市内のマーケット広場に連れてこられて銃殺された。ドイツはさらに年末までに13,000人のポーランド人を、ポーランド北部に建設された、のちに絶滅収容所の一つとなるシュトゥットフ強制収容所に送った。

ドイツ軍のポーランド侵攻の期間、民間人の総犠牲者数は、ポーランド人約150,000人、ドイツ人(主にドイツ系ポーランド人)約5,000人と推定されている。

2009年04月10日

ヴィオラ・ダモーレ

ヴィオラ・ダモーレ(viola d'amore )は、バロック時代、特に17世紀の終わりに用いられた、6?7弦の演奏弦と同数の共鳴弦を持つ擦弦楽器である。

構造と音
ヴィオラ・ダモーレは、演奏弦が多いためにヴィオラ・ダ・ガンバの仲間と誤解されやすいが、ヴィオラ・ダ・ブラッチョの仲間であり、ヴァイオリンと同じように肩の上に乗せて演奏する。裏板は平面であり指板にフレットが存在しない。また、ヴァイオリンでいうf字孔の部分の形状が異なっている。

「愛のヴィオラ」というように甘美で温かい音色が生じるのは、演奏弦の下に金属製の共鳴弦があるためである。レオポルト・モーツァルトは、自著『Versuch einer gründlichen Violinschule』に「夜の静けさには、特に魅力的な音だ」と記している。

ヴィオラ奏者が演奏することが多い。

調弦は、低いほうから A - d - a - d' - f#' - a' - d''

ヴィオラ・ダ・ガンバの仲間にもバリトン(w:en:Baryton)という共鳴弦を持った楽器がある。ノルウェーの民族楽器ハーディングフェーレ(ハルダンゲルヴァイオリン)は、ヴィオラ・ダモーレから派生したものだといわれている。

関連する作曲家 [編集]
ビーバー
ヴィヴァルディ:「ヴィオラ・ダモーレとリュートのための協奏曲ニ短調、RV540」「6つのヴィオラ・ダモーレ協奏曲集、RV392?397」
J・S・バッハ
ルクレール
ハイドン:「ヴィオラ・ダモーレとヴァイオリン、チェロのためのディヴェルティメント」
テレマン
C・シュターミッツ:3つの独奏協奏曲を残している。
プッチーニ:「蝶々夫人」
ヒンデミット:「ヴィオラ・ダモーレのための小ソナタ」、室内音楽第6番(ヴィオラ・ダモーレ協奏曲)
プロコフィエフ:「ロメオとジュリエット」

イタ飯 タップ ナビトーチ レザー ひなづる メンド オラト 若き獅子 スイセン お山 シャシー フェタミン ブルージー ハリファ シンガ マニュ チリ バカンス スタバ ピアプ プラス シュード チェス シャトル ブレン プライス ビング 風神雷神 パライパ リンプ フォッ サラバード トシン バンド チロル もうげつ ラザニ ルサロ もみがら プルーフ アップ セクター ハーベ ローション インター ザクロ ブロカ ジェラー モルダビア ファー

2009年03月27日

オビツボディ

オビツボディとは、オビツ製作所が製造、販売を行っている人形素体である。

オビツ製作所が独自で開発・製造している素体のことを「オビツボディ」と呼ぶ。素体サイズの豊富さとメンテナンスの容易さが特徴である。ボークスとほぼ同時期に1/6の素体の販売を開始しており、他社のブランドに提供している。
オビツボディはかつてドールの素体として使われていたジェニー同様多く使われている(オビツボディ登場以前はジェニードールが素体として使われていた)。基本的に素体を他社にOEM供給をしているが、自社ブランドのドールも販売している。「アゾンインターナショナル」の直売店や自社のホームページなどで素体パーツの単品売りをしているため、万が一破損した場合でも容易に交換することができる。
オビツボディはデッサン用の素体として「デリータ・ドール」が発売されているため、画材店でも見かけることが多い。

特徴 [編集]

1/6スケール素体 [編集]
素体は1/6スケール相当のものが4種類(21、23、25、27cm)があり、25cmを除くそれぞれに、男性・女性用の素体が用意されている。
27cm女性素体は胸?腹部がソフトタイプのものとABS製のノーマルタイプが用意されており、23cm、25cm、27cm女性素体には胸?腰部までをソフトタイプにしたものも展開(25cmはこの仕様のみ)されており、各ソフトタイプの胸部はS・M・Lサイズから選ぶ事ができる。
表情の付いた手が数種類(開き手・持ち手・握り手)同梱しており、素体だけで様々な表情をつけることができる。
オプションのヘッドも豊富で、植毛ヘッドやドールアイを仕込む事ができる入れ目用ヘッドなどが販売されている。ヘッドアダプタが数種類付属し、規格が異なるヘッドにも対応する。
足の裏にマグネットが内蔵されている素体も発売されており、スチールの台座の上に立たせることができる。
肌の色は「ナチュラル」とそれよりも白い「ホワイティ」の2種類(オビツ60なども同様)。
(ナチュラルは以前は赤みが強い色だったが現在販売されている製品は薄めの肌色に変更されている)

オビツ60 [編集]
1/3スケール相当の素体として、「オビツ60」がある。これは男性ボディこそ発売されていないものの、男性用の胸部パーツが発売されており、交換することで男性ボディとして使用することができる。女性胸部パーツもS・M・Lサイズが用意されており、パーツ売りもされている。
ドルフィー・ドリームのタイプ?素体と同様ABS樹脂とポリアセタール(POM)を組み合わせた可動フレームにポリ塩化ビニル(PVC)製の外皮を被せた仕様であり、肘・膝が二重関節になっているタイプと球体関節のタイプがある。腰も通常タイプとソフトタイプが存在する(球体関節タイプはソフトタイプのみ)。また、足の裏にマグネットが内蔵しており、スチール製の台座に支柱なしで立つことができる(ただし靴を履かせると磁力が弱くなり、立たせることができなくなる。それを補うためにマグネットが内蔵されている靴が発売されている)。
オビツ60にはオプションハンドは付属しないが、別売りのハンドを使うことで「握り手」「持ち手」などの表現ができる。ヘッドはドルフィー・ドリーム同様多くの種類があり、ウイッグの種類も多い。また、ドールアイも自社製のものが販売されており、それを固定するためのオリジナルアイホルダーもある。
オビツ60の欠点としてウイッグや服からの色移りが挙げられる。これは外皮にPVCを使っているためで、長時間着たままでいるとウイッグや布の色素がPVCに染みこみ、後が残ってしまう。内部まで染みこんでいるため研磨での除去は不可能であり、パーツごとの交換が必要になる。色移りの対処法は頻繁に着せ替えをすることや、色移りする箇所をビニールなどで包む事で防ぐ事ができる。また、旧ボディでは首の可動が狭く、保持が弱いという欠点があったが、改良型の首ジョイントパーツでは首の保持や可動が見直されている。

オビツ55、50 [編集]
2007年末に男性用素体として「オビツ55」が発売された。この素体はオビツ60のボディバランスや可動範囲などを見直し、より人間らしいプロポーションを追及している。女性用素体である「オビツ50」も2009年3月に発売を開始、それに先行して、やまとよりオビツ50を基にした素体「vmf50」がホームページと直営店限定で販売している。
オビツ60やドルフィー・ドリームの場合、服を着せた後のバランスを重点においていたのに対し、オビツ55・50は腕や脚の長さを調節し、素体の状態でも人間らしいバランスに仕上げている。オビツ55は基本的にオビツ60と同じパーツ構成(ただし首関節が新タイプに変更され、可動範囲が拡大している)だが、オビツ50は関節も見直されており、ラインの崩れを最小限にした肘や膝の二重関節や肩関節が前後左右に可動するなど、より自然なポーシングができるようになっている。
オビツ60を含む60cmドールのヘッドを流用する事が可能で、それぞれの内部骨格の一部を変更する事もできる。55・50共にパーツ単位での発売も予定されている。

OBITSU BODY THE DOG [編集]
オビツが新たに開発した1/6サイズの犬型可動素体。これまで犬型を含む動物の可動素体は数えるほどしかなく、同スケールの人形に絡ませるシーンを作るには固定ポーズのフィギュアを使うか、自作するしか方法がなかった。
この犬型素体は、ABSの骨格にPOMの関節が組み込まれており、自由に分解・組み換えができるようになっている。また、尾と頭部を組み替えて、別の種類の犬を作ることも可能である。2009年3月現在、色はブラックとホワイト、クリアーの3種が発売されている。このほかに、蓄光バージョンも予定されている。素体にかぶせる外皮の発売も予定されているが、発売時期は未定。

オリジナルモデル [編集]
オビツボディは他社のキャラクタードールの素体としても販売しているが、自社オリジナルのドールも数種類販売している。それぞれ1/6(27cm)、60cm、50cmサイズのドールがあるが、生産数が限られており、販売を終了したモデルもある。
オビツ50素体発売に先行して、オビツ50オリジナルモデル「MIZUKI」の販売が開始され、ワンダーフェスティバル予約分の第1次・2次出荷分が発売された。その後に一般販売分が4月23日に発売したがその日のうちに締め切られ、5月12日~19日に受付生産という形で予約をとった(今後は予備分とキャンセル分を販売して生産を終了する予定)。
「MIZUKI」に続いて、オビツ50オリジナルモデル第2弾として「MIKADUKI」の予約が開始された。「MIKADUKI」はウェブサイト上の受付注文のみで会場での受付はされなかった。そのため、注文数が予想を大きく上回り、2008年12月発売の予定だったのが2月に延期された。

関連項目 [編集]
カスタマイズドール
人形
ドールアイ
ドルフィー・ドリーム
オビツ60と同サイズのドールで、コンセプトが似通っている。
アゾンインターナショナル
60cmドールの素体にオビツ60を使用している。
ママチャップトイ
ダイキ工業
オリジナル素体にオビツボディを使用している。
キューティーズ
オリジナルドールの素体にオビツボディを使用している。
PARABOX
オビツ製オリジナルヘッドや47cmオビツボディ、これらを使用したドールを販売している。

ニュー エイジ メダリスト スポラ ぽち袋 スモーカー ブックレ リピート ハナイカダ チェーン レーター トゥース フェンス 大蔵大根 ろくまい サンパウロ とわだ シロップ たかね トロライト ブッサ ブレー シュノ ゴツコーラ チューブ インソール シルク 黒かぼ 愛宕柿 モーター ローンチ ゲリララ ヒッコリ ピタ最適 リシック サーチ恋路 オクイ パーカ シンクロ パンチャー バリティー ミャン シート フラン アップ ハンマ ティッシモ デトロ 万寿国 ブルー

2009年03月11日

メキシコシティ

メキシコシティ(スペイン語 Ciudad de México(シウダー・デ・メヒコ)、México(メヒコ)、英語 Mexico City、Mexico)は、メキシコの首都である。

メキシコのみならず中南米の経済の中心地である。アステカ王国のかつての首都テノチティトランでもあった。近郊を含む都市圏の人口では、東京(東京圏)に次ぐ世界第2位の規模であり、それに次ぐサンパウロやニューヨーク、ロンドンなどとともに上位の世界都市とされる。なお、世界の主要都市としては例がない約2,300メートルの高地に位置する。

行政上の正式名称は、連邦区 (Distrito Federal、D.F.) 。D.F.(デ・エフェ)と呼ぶ人はメキシコ北部に多い。
アステカ王国時代は「テノチティトラン」と呼ばれ、テスココ湖の湖上に築かれた壮麗な都市だった。

1519年にスペイン人のエルナン・コルテス (Hernán Cortées) のメキシコ征服により破壊され、湖は埋められてその上に現在のヨーロッパ(スペイン)風の都市が築かれた。

スペインの植民地時代とその後の独立を経て、メキシコのみならず中南米を代表する大都市として発展を続けた。

第二次世界大戦後のメキシコの経済成長を受けて1968年には夏季オリンピックが、1970年にはFIFAワールドカップ開催された。

1985年に起きた大地震では沢山のビルが崩壊したが、その多くが地盤の緩い埋立地にあるものであった。しかし急速に復興を遂げて翌年の1986年には予定通りに2度目のFIFAワールドカップが開催された。現在は都市圏が世界第2位の人口を持つ、中南米を代表する世界都市に成長した。

面積は1479平方キロメートル。周囲は、西北東の3方をメヒコ州に囲まれ、南にモレロス州と隣接する。州には属さない独立した連邦直轄地である。連邦区の行政の長は大統領によって指名される。

連邦区は、1824年に、当時のメキシコシティーと周辺の自治体を範囲として誕生した。1928年には連邦区内にあった自治体を廃止し連邦政府による一体的な統治を実現した。現在では、自治体としてのメキシコシティは存在せず、連邦区の範囲全体を指してメキシコシティと呼ばれている。
ステンレス トマホーク バスク ダンプカー スポード プラーク スタミナ メード オーダー ケーブル 浮き桟 ミシガン マイカ トレビ レーン ベニトアイト リップ シェフ コムサット スプラ チオノ タイト サフー ナウシカ パラレル マッカー しらさぎ ミュージア カフェオ バート ベリー レガシー きくすい ジェジェ ダイオプ チャツ フレンチキ ソフト トラコーマ アンデス スエズ 五節の舞姫 ギョーザ ステミン イバル オード ラップ ローマ フェルミ ヘマタ

行政区
クアウテモク (w:Cuauhtémoc, D.F.)
モレロス (Morelos)
ベヌスチアノカランサ
ハルディンバルブエナ
イスタカルコ (Iztacalco)
ピエダドナルバルデ
タクバ
タクバヤ
ベニート・フアレス (W:Benito Juárez, D.F.)

経済
中南米を代表する都市
2000年の国勢調査によると人口は859万1000人と中南米最大の人口を誇り、名実ともに中南米を代表する経済規模を持つ都市となっている。市内中心部にはメキシコの大企業の本社のほか、ヨーロッパやアジア、アメリカの多国籍企業のオフィスが林立している他、大型ショッピングモールやレストラン、スーパーマーケットが多数あり、消費面でもメキシコ経済を牽引する存在である。また、市内近郊には新ビジネスエリアが建設され、多くの大企業がオフィスを構えている。

しかし、南北アメリカにおけるその国の人口第2位の都市との人口差が極端に離れているプライメイトシティの代表例であり、人口及び政治経済の一極集中化が近年社会問題に発展している。

公害問題
市内には高層ビルやホテルが林立し、道路はいつも車で埋め尽くされている。しかし排気ガス規制が緩く、その上4000メートルを超える山々に囲まれている盆地に位置するため汚染された空気が拡散しにくく、高地による空気の薄さとあいまって大気汚染が年々進行しており、非常に深刻な問題となっている。原因の一つとして整備不良の旧型の自動車による排ガスが挙げられており、政府による排ガス検査や、地域ごとに自動車利用を制限するなどの措置が施されているが、有効的な結果は得られておらず、結局一時的なものと見做されているのが現状である。

2009年02月23日

ドラヴィダ語族

ドラヴィダ語族(ドラヴィダごぞく、Dravida)は、主にドラヴィダ族の人々が使用する言語の語族 (ごぞく) であり、およそ26の言語が含まれる。ドラヴィダ語は、主として南インドとスリランカで話されているが、また、パキスタン、ネパール、そして東部及び中央インドの特定の地域でも話されている。 ドラヴィダ語族の話者人口は 2億人を越える。
どんどん橋 バンケット ドラント カステラ セルフ ターン トーチカ ピアサポタ リーバス クロラール キッチ かほく ビジター スピカ 大地の景色 モンゴル 真昼の月日 ドス上位 オーバリ マグネ クロマト モンタント やんぐこ セレス カウハイド ハナショ たそがれ フカロッ ヒノキ ベット カリス マニキ こちんだ バイサイド ラフ アウト タイガー キュラ やまびこ ブーム 大冒険 スケット トランス ハーレム クライ ジンマカオ バック ロスマリン キレイ モアイ

ドラヴィダ語の起源は、後続する言語の展開及びその分化の時代と共に、分かっていない。この状態は、ドラヴィダ諸語に対する比較言語学的研究が欠如しているため、改善されていない。ドラヴィダ語と、ウラル語及びアルタイ語のグループ(ウラル・アルタイ語族)のあいだには、著しい類似性が存在し、このことは、両者が共通の起源よりの派生であるとはとても思えないにしても、これらの語族のあいだで、展開のある段階において、長期間に渡る接触が存在したことを示唆する[要出典]。

ドラヴィダ語を話す人々の集団に共通する多数の伝説は、遙か南方の、いまは沈んだ、広大な大陸が彼らの故郷であると述べている[要出典]。しかし多くの言語学者は、南部ドラヴィダ諸語が、北部ドラヴィダ諸語が接触していない言語集団と接触したことを表すある種の特徴を示すという事実より、ドラヴィダ語話者たちが、インド亜大陸を横ぎって、南方に、そして東方に広がったとする理論を支持する傾向にある。原ドラヴィダ語(Proto-Dravidian)は、紀元前1500年頃に、原北部ドラヴィダ語、原中央ドラヴィダ語、そして原南部ドラヴィダ語に分化したと考えられている。とはいえ、ある言語学者たちは、この語族の亜派(sub-family)のあいだに見られる分化の大きさは、分裂がより古い時代に起こったことを示すと主張している[要出典]。

ドラヴィダ語族の存在は、1816年に、『テルーグー語(Teloogoo Language)の文法』において、著者アレグザンダー・D・キャンベル(Alexander D. Campbell)によって最初に示唆された。この著作のなかで、キャンベルとフランシス・W・エリス(Francis W. Ellis)は、タミル語とテルグ語は、印欧語ではない、共通の祖語から派生したと主張した。とはいえ、ドラヴィダ語族が非常に大きな語族であるということが確認されたのは、1856年に、ロバート・コールドウェル(Robert Caldwell)が、著書『ドラヴィダまたは南インド語族の比較文法』を出版して以降のことだった。この本は、ドラヴィダ語の包括範囲を著しく拡張し、この語族を世界における有数の大言語群の一つとして確立した。コールドウェルは、「ドラヴィダ語(Dravidian)」という術語を、紀元7世紀のサンスクリット語のテクストにおいて、南インドの諸言語を指すのに使われていた「 drāvida 」という言葉より造語した。T・バロー(T. Burrow)とM・B・エメノー(M. B. Emeneau)による『ドラヴィダ語語源辞典』の出版は、ドラヴィダ語学における画期的な出来事であった。

ドラヴィダ語族は、既知の他の語族との間で関係が認められない。この語族を、日本諸語(Japonic languages,日本語族?日本語・琉球語より成る語族)、バスク語、朝鮮語、シュメール語、オーストラリア・アボリジニ諸語、そしてインダス文明で使用されていた未知の言語と関連付けようとする試みが行われてきたが、結論が出ていない。 一部の研究者は、ドラヴィダ語を、より大きな分類としてのエラモドラヴィダ語族(Elamo-Dravidian language family)のなかに含めている。後者は、現在の南西イランに当たる領域で使われていた古代エラム語をドラヴィダ語に加えた語族である。しかし、このような分類は、大多数のドラヴィダ語研究者には受け入れられていない。

ドラヴィダ語の一覧
日本語での言語名を最初に示し、インドの国語である言語はボールド体で示している。括弧内は、その言語が使用する文字による表記、その文字のローマ字転写、英語名を順に示している。但し、不明なものについては記していない。

南部ドラヴィダ語派
タミル語 (????? ; tami? ; Tamil ; タミル・ナードゥ州)
カンナダ語 (????? ; kanna?a ; Kannada / Canara ; カルナータカ州)
マラヤーラム語 (?????? ; malayā?a? ; Malayalam ; ケーララ州)
トゥル語 (???? ; tu?u ; Tulu ; カルナータカ州南部)
トダ語 (Toda ; ケーララ州北東部)
コータ語 (Kota ; ケーララ州北東部)
バダガ語 (Badaga ; タミル・ナードゥ州西部)
イルラ語 (iru?a ; Irula ; ケーララ州北東部)
コダグ語 (????? ; ko?agu ; Kodagu / Kodava Thakk / Coorgi / Coorg ; カルナータカ州南部)

中南部ドラヴィダ語派
テルグ語 (?????? ; telugu ; Telugu ; アーンドラ・プラデーシュ州)
コンダ語 (kon?a ; Konda ; アーンドラ・プラデーシュ州北東部)
ペンゴ語 (Pengo ; オリッサ州中部)
クーイ語 (kūi ; Kui ; オリッサ州中部)
クーヴィンガ語 (kūvinga ; Kuwi ; オリッサ州中部)
マンダ語 (man?a ; Manda ; オリッサ州中部)
ゴーンディー語 (gōndī ; Gondi ; マハーラーシュトラ州東部)
マンドラ方言 (maņ?lā ; Mandla)
マリア方言 (Maria / Abujmaria)
チャンダ方言 (Chanda)
アーディラバードゥ方言 (Adilabad)
コーヤ方言 (kōya ; Koya)

中部ドラヴィダ語派
コーラーミー語 (kōlāmī ; Kolami ; マハーラーシュトラ州東部)
ナイキー語 (Naiki ; マハーラーシュトラ州東部)
パルジー語 (Parji ; オリッサ州南部)
ガドバ語 (Gadba ; オリッサ州南部)
オッラーリ方言 (Ollari dialect)
サルール方言 (Salur dialect ; 以前はポーヤ語 (Poya) と呼ばれ、独立しているとみなされていた。)

北部ドラヴィダ語派
ブラーフーイー語 (brāhūī ; Brahui ; パキスタンとアフガニスタンの一部)
クルク語 (Kurukh / Oraon ; ビハール州、西ベンガル州、マディヤ・プラデーシュ州の一部)
マルト語 (Malto ; ビハール州の一部)
以上の諸言語のうち、インドおよびスリ・ランカ外に中心地をもつ言語は、ブラーフーイー語のみである。

音韻体系
ドラヴィダ語は、フィンランド語と似て、有声閉鎖音と無声閉鎖音のあいだに区別がないことが特徴であり、実際タミル語には、有声閉鎖音と無声閉鎖音とを区別して示す記号がない。またタミル語には、帯気閉鎖音と無気閉鎖音とを区別して示す記号もない。ドラヴィダ諸語(とりわけ、マラヤラム語、カンナダ語、そしてテルグ語)は、有声音と無声音、および帯気音と無気音のあいだで明瞭な区別を行うサンスクリット語やその他の印欧語から非常に多数の借用語を取り込んでいる一方で、このような単語はしばしばドラヴィダ諸語の話者によって、ドラヴィダ語族の音韻に合うような調整を受けた発音をされている。(但し上記の三言語ではタミル語と違い、本来ドラヴィダ語にはない帯気閉鎖音と無気閉鎖音の区別をサンスクリットなどを通じて受け入れた。)ドラヴィダ語はまた、非常に多数の流音に加え、歯間、歯茎、反転音硬口蓋という三通りの調音点のあいだの区別で特徴付けられる。

逆転特質
ドラヴィダ語の単語は、子音の順序を逆にし、適切な母音の変形定義集合を当て嵌めることで、類似した意味を持つ、新しい単語が得られるという特質を備えている。時間の経過と共に、ある形式が一般的な転用のケースを表すようになり、他の形式は、特殊なケースを表すというようになった。

例えば:
Erasu (集まる) と sEru (加わる)
kaNu (見る) と iNuku (覗く)
atta (屋根裏) は、それ自身逆転語である。

母音で始まる単語
相当数の単語がまた、母音で始まり、母音で終わる。これによって、ドラヴィダ語の膠着的な性質が補強している。

aLu(叫ぶ), elumbu(骨), adu(あれ・それ), alli(あそこに・そこに), idu(これ), illai(ない, 不在)
adu?idil?illai (あれ?これ?に?ない = あれは、これには、ない

他言語の影響
カンナダ語、マラヤラム語及びテルグ語は、印欧語のインド・アーリア語派に属するサンスクリット語などの言語の影響を相対的により大きく受けており、帯気子音を借用し取り入れている。サンスクリット語の単語とその派生語は、カンナダ語、マラヤラム語、そしてテルグ語では共通している。タミル語は、サンスクリット語やその他の外来言語の影響がもっとも少なく、原ドラヴィダ語にもっとも近い形を保持している。 又北インドのイスラーム化やインド洋でのイスラーム商人の活動により、北インドの諸言語ほどではないもののアラビア語やペルシア語がサンスクリット語に続く新たな上層としてドラヴィダ諸語の上にかぶさった。これらの要素にはヒンドゥスターニー語などの近代北インド諸語を仲介に導入されたものと、インド洋交易を通じて直接導入されたものがある。 とはいえこれらの影響はサンスクリットによるものに比べれば軽微であり、ヒンドゥスターニー語をはじめとする北インドの諸言語ではアラビア語、ペルシア語の上層によって廃棄されたサンスクリット由来の語彙が、却ってこれらのサンスクリットの影響を強く受けたドラヴィダ諸語に残っているというねじれ現象も少なくない。 また、南インドの文字も北インドの文字と同様アーリア人のもたらした文字を元に派生している。

2009年02月06日

インカ神話(- しんわ)

インカ神話(- しんわ)はインカ民族(ケチュア族)に伝わる神話であるが、ここでは、「ペルーの神話」「アンデスの神話」などと呼ばれるアンデス山脈の諸民族の神話の総称と定義して解説する。
シンビジ 検索ゆに 日光街道 熱帯魚 パース サーチ秀月 サンバ しべつ ジギタリ ドロス 章姫 ひまわり 風の森 リミング フラメンコ オライタイ トロイ オスロ バルバ バハマ タイリン 透明人間 アルコ いとの キーワ ランチドポ ハイフ 未来の果実 テイステ 若菜摘 コリーナ マントル ぼうし チャレン いながき マナウス ブイシネマ ネイショ プロ うすき ブリュッセ リコソウ プレメイ ウォーム よりどころ 流星 メリー たくぼ ひない クロス

アンデス山脈の高地や海岸の砂漠地帯に発展したアンデスの諸民族は、それぞれが民族固有の神話伝承を口承で語り継いでいた。 しかしインカ帝国が15世紀末頃にこれら諸民族を統一すると、インカ民族の言語であるケチュア語を普及させるとともに、国家宗教である太陽の神殿祭祀を推し進めた。 各地の伝承はインカ民族の伝承や神話が入り込んで変容し、さらに民族固有の伝統が変化したり言語が失なわれたりすることもあった。

1532年から翌年にかけ、フランシスコ・ピサロらスペイン人の侵攻を受け、皇帝アタワルパを殺され首都クスコを奪われたインカ帝国は崩壊した。 地元民は、戦乱だけでなくヨーロッパ大陸から入ってきた病気によって、地区によっては全滅した例もあった。 さらにカトリック教会が従来の宗教に弾圧を加えた。 アンデスでは文字を使用していなかったため、スペイン人に征服される前の神話伝承の記録は、こうした出来事の中で多くが失われたと考えられている。

アンデスに侵入してきたスペイン人のうちの少数や、読み書きができるメスティーソとインディオが、神話などの口承を記録した。 これらは記録者の価値観によって内容が歪曲されている可能性がある。 たとえばワマン・ポマの記録は貴重な内容であるものの、キリスト教の影響が濃く出ているとされている。 また記録者によっては、神話を聖書に沿った内容に改変したり、聖書に伝えられた出来事を重ねようとして神話を歪めたりする例もあった。 しかし、まだヨーロッパ文明の影響を受けていない征服間もない時期の記録には、インカの伝承、国家的な祭祀の様子が詳しく書かれている。

主な神話
創世神話
ペルー南部高地の伝統的な創造神ビラコチャは、インカ民族に伝わる神であり、多くの記録者による異伝がある。 海岸地域では、太陽と兄弟であるとされる創造神パチャカマックが活躍する。 中部高地のワロチリ地方には4柱の創造神、ヤナムカ・トゥタニャムカ(ヤナムカ・インタナムカ)、ワリャリョ・カルウィンチョ、パリアカカ、コニラヤ・ビラコチャ(クニラヤ)の神話が伝えられている。 このほか、北高地のワマチューコ地方にも独自の神話が残っている。

北高地南部では、4つの世界、すなわちワリウィラコチャルナ(人類が洞窟に住み、無心に暮らす)、ワリルナ(定住して農業をし、創造神を知る)、プルンルナ(王や戦士が生じ、また海岸低地に進出)、アウカルナ(王国間で戦争)が次々に交代したという伝承がある。 また、南高地のチチカカ湖周辺にも、プルンパチャ、カリャックパチャ、プルンカチャ・ラカプティン、トナパ・ビラコチャという4つの世界が次々に現れたという伝承がある。

インカ民族を最初に支配したのはマンコ・カパックとされている。(詳細はインカ帝国#伝承を参照。)

なお、マンコ・カパックは4人兄弟の末っ子であるが、アメリカ大陸では一般的にこの「4」という数字が神聖視されている。

太陽の神話
インカ帝国の国教は太陽神信仰であったとされるが、創世神話において太陽は他の神に作られることはあっても太陽自体が主神の役割をすることはなかった。 パチャクテクを皇帝とするインカ帝国が諸民族を征服、支配した後で、帝国の支配の正当性を示すべく、昔からの神話を解釈し直して新たな神話を作り出した。ユパンキ(パチャクテクの初名)の物語は、太陽を父とするパチャクテクによる征服を正当化するものである。

帝国崩壊後の神話
インカ帝国が崩壊した後、国家的祭祀と神話はじきに消滅してしまったが、アンデス各地に根強く伝わっていた神話、信仰、儀礼は残った。 ワマニをはじめとする山上の神、地母神パチャママへの信仰は強固に残存した。 また、神秘的な力を持った物や表象物や場所、神格、神像をさす「ワカ」という概念も信仰され続けた。 雷や稲妻も天の神の姿の1つとされて信仰され、雨を降らせる力にも関連づけられた。

パチャママは神話にはあまり登場しないものの、近代になっても農民がトウモロコシで作った酒を大地に撒き、地下にあって大地の作物を増殖させると信じられているパチャママを讃えている。

2009年01月22日

南北戦争ではガス気球が使用され

19世紀中頃にはオーストリア海軍が船に係留した熱気球から爆弾の投下を試みた。南北戦争ではガス気球が使用され、ガス発生装置を備えた艦が建造された。第一次世界大戦でも同様の艦が使用され、後に水上機母艦へと転用された。 第一次世界大戦中にイギリス海軍と日本海軍は少数の木製水上機を海面に吊り下ろして発進させる艦を建造し、ドイツ軍基地(日本軍はドイツ租借地の青島)を攻撃した。これらの艦は水上機母艦と呼ばれた。水上機母艦の最初のものは、1911年にフランス海軍が機雷敷設艦のラ・フードルを水上機の運用が可能なように改修したのが始まりだといわれている。海軍の水上機はそれなりに活躍したが、大きなフロートを装備しているため、飛行性能では(通常の)陸上機に劣った。両国海軍ともに性能の良い通常の航空機を運用可能な母艦が望まれ、本格的な航空母艦へと発展していく。

第二次世界大戦の空母は、陸上機と同等の性能を有する全金属製の戦闘機や爆撃機を(艦船の性能によるが)50機以上運用し、その汎用性・攻撃力の高さから戦艦をしのぐ海軍の主力艦となった。

現在の空母は、排水量10万t以上で100機近い最新鋭機を運用するアメリカの原子力空母から、排水量1万t強、垂直離着陸機10機を運用するタイのチャクリ・ナルエベトまで多岐に及んでいる。

航空機が実用化された直後から、各国の海軍は航行中の艦船から航空機を発着させる努力を続けてきた。米国は1910年に巡洋艦「バーミンガム」に仮設した滑走台から陸上機の離艦に成功した。翌年には装甲巡洋艦「ペンシルバニア」の後部に着艦用甲板を仮設し、離着艦に成功した。1912年には英国でも仮設甲板からの離艦に成功した。ただし、これらの成功はいずれも仮設甲板を使用しただけでなく港内に停泊中の艦からのものであり、実用性は乏しかった。

第一次世界大戦
第一次世界大戦では、航空機による索敵・爆撃・雷撃・空中戦が行われた。

英国は比較的高速な2,000?10,000tの商船を水上機母艦に改造し、数機編隊でドイツ本土を攻撃した。この艦は搭載した水上機をクレーンで水面に吊り下ろして発進させていた(日本海軍でも、水上機母艦若宮(5,180t)をドイツ軍基地のあった中国の青島沖に派遣し、同様の方式で攻撃を行った)。

この程度の攻撃力では不十分であると感じた英国は、巨砲を有する超大型巡洋艦として建造中のフューリアス(19,000t)の砲を下ろし、前甲板と後甲板を完全に飛行甲板に改造した。世界最初の本格的な航空母艦であったが、艦の真中には巡洋艦時代の高い艦橋と煙突がそびえていた。

更に完成度の高い空母として、英国は建造中の高速商船を改設計し、航空母艦アーガス(14,450t)を建造した。この艦は艦首から艦尾までの飛行甲板上に全く邪魔物のない構造(全通甲板)で、その後の小型空母の模範となった。

一方、アメリカは給炭艦ジュピターを改造した空母ラングレイを建造した。

第一次世界大戦での実績から、英・日の海軍は海上航空能力の必要性を痛感し、既存艦船の改装によらない本格的航空母艦の建造に着手した。
ビーシ イズミル サイド トレハ シェブロ マイラー ホウオウ マドレーヌ マルチビ チャー ピナクル マックス エデン 恋のラジオ 桔梗ナビ 桜桃 セリ対策 テナント メンタル スペー パワー あぴお スタート ジョイ ナビゲ レバー支援 トルマン アポク オフライ フォートラン まっち レンゲ ブラウザー ビネガ ナイト テオプ ふぁんでる ヨットパ まぜり タイザー チケット サラシア 秋の夕暮れ ジンギ スタンス ロールフ えせん バック オイディ コスト

初めから航空母艦として設計された艦で、最初に起工された艦はイギリスのハーミーズであったが完成が遅れ、最も早く竣工(完成、1922年)したのは日本の鳳翔だった(ハーミーズの完成はその翌々年の1924年であった)。また、イギリスはハーミーズとほぼ同時に空母イーグルを完成させたが、これはアルゼンチンの注文で(英国で)建造していた戦艦を接収し、空母に再設計したものだった。

海軍軍縮条約時代

条約により空母となったベアルン1922年のワシントン海軍軍縮条約の結果、戦艦と巡洋戦艦の建造は全て中止され、日米は建造中の巡洋戦艦各2隻を航空母艦に改造する事になった。英国は先のフューリアスとその準姉妹艦2隻を完全な航空母艦に改造した。またフランスは建造を中止した戦艦1隻を改造し空母として完成させた。
ワシントン海軍軍縮条約を受けた各国の空母建造状況は、以下の通り。

日本 - 赤城、加賀 - 最初予定した赤城の同型艦である天城が関東大震災で破損したため未成戦艦加賀を空母に改装。
アメリカ - レキシントン、サラトガ
イギリス - フューリアス、カレイジャス、グローリアス
フランス - ベアルン
その後、日米は上記改装空母の運用実績を生かした新しい空母の建造を(ワシントン条約の枠内で)続けた。

アメリカ - レンジャー、ヨークタウン級2隻(ヨークタウン、エンタープライズ)、ワスプ
日本 - 龍驤、蒼龍、飛龍
この時代の各国の空母の特徴として、格納庫の構造があげられる。アメリカは 主船体の上に1層の広い格納庫を載せ、その上に飛行甲板を設けていた。日本とイギリスは、格納庫を主船体内に取り入れた結果、面積が大きく取れなかった代わりに、2層以上の格納庫を設けていた。

第二次世界大戦まで
ワシントン条約に続くロンドン海軍軍縮条約では航空母艦にも制限が加えられたが、1936年の日本の脱退により、条約による艦船建造の規制時代は終わりを告げた。

日本とイギリスは、条約明け直後から充分な戦闘力を有する大型の空母の建造を開始した。少し遅れてアメリカも大建造に着手した。戦力増強を急いだアメリカは、既存のヨークタウン級1隻を建造しつつ、新たな設計の空母(後のエセックス級)の開発に入った。

日本 - 翔鶴型2隻(翔鶴、瑞鶴)、大鳳、信濃(大和型戦艦の三番艦として建造していたが、ミッドウェー海戦後に計画変更して空母化)
イギリス - アーク・ロイヤル、イラストリアス級6隻
アメリカ - ヨークタウン級1隻(ホーネット)、エセックス級24隻(1943年から就役、ただし7隻は戦後の完成)、ミッドウェイ級3隻
これらの空母は充分な攻撃力と相応の防御力を有しており、正規空母や艦隊型空母と呼ばれた。

この中でイギリスの空母は敢えて搭載機数を犠牲にして飛行甲板と格納庫を強固に防御しており、実戦でもその有効性が証明されたが、搭載機数の少なさは否めなかった。飛行甲板に装甲を施すことによる搭載機数の少なさの解決は、後に就役したアメリカのミッドウェイ級が登場するまで待たねばならなかった。

2009年01月15日

ヘイト・アシュベリーとヒッピー


ユーティ つくだ ジャー まんご アンプ マガジン マッコリ だいせん センダン チコリー ノアアク フェイント ホーム フロッタ マリ幸運 ナンヨウ ジブル おれが オーシャ ディフェ メッシュ ナツユ ふくべそ しもごう ギャルド リング リビア キウイフル ローティー ニュース ニアピン モーター ジュアル マイナー ガント ビーム ツーリズム レクラニ ハイフ センサ メチエ バイパス クール おたる ビリー ジャンプ トロール モホス プチトマト はかま
アメリカカリフォルニア州サンフランシスコのヘイト・アシュベリー(ヘイト・ストリートとアシュベリー・ストリートの交差点を中心とした地区)はもともとヴィクトリア朝時代に上流階級の住宅地として発展した地区である。

しかし、1930年代に世界恐慌のために人が離れ始め、地価や家賃が下がり、労働者階級の人々が流れ込み始めた。

1950年代になるとサンフランシスコの再開発により追い出されたり、住んでいるところが観光地化して住みにくくなってしまったボヘミアンやビート達が主にノースビーチから移り住み始めた。彼らは借りた古いヴィクトリア朝の建物を鮮やかに彩色して住み、ペインテッドレディース(彩色された家)ムーブメントが起こった。

そして1960年代に入ると、フラワーパワージェネレーションのムーブメントに動かされた若者達も市内や全米各地からこの地区に移り住み始めた。この頃には近くのステート大学の学生も多く住んでいた。周りの地区の住民は、この地区に住む若者達を、長髪で、髭をはやし、だらしない格好をしたおかしい奴、はずれた奴と見なし、「ヒップ(尻)のように汚い奴ら」という意味を込め、「ヒッピー」と呼び始めた[51]。後に既成の制度、慣習、価値観念に縛られることに反抗したヒッピーは大きなムーブメントとなり、世界中に広まることになる(日本ではフーテンやみゆき族等の現象を生んだ

ヒッピー達はアメリカの生活に深く浸透しているキリスト教的価値観に反発し、それとは反対である(とヒッピー達は考えていた)東洋趣味、神秘主義へと行き着いた。そのようなヒッピー達にとって禅や瞑想は自分達のニーズに合致するものであった。ゴールデンゲートパーク内には日本庭園があり、ヒッピー達はそこで瞑想をした。

そしてLSDが出回り始めるとヒッピー達はLSDによるトリップが宗教的体験、意識拡大をさせるものとしてLSDを「インスタント禅」と呼んで使用した。ステート大学ではLSDについての講演が行われるようになった。

ジェイ・シリンはステート大学の学生であったが、1964年にリチャード・アルパートの講演に刺激されLSDを体験する。そして、兄のロン・シリンとともにLSD体験を広めるために、1966年にサイケデリック体験のための本や資料を売る店をヘイト・アシュベリーに開いた[53]。その後この通り沿いには英国や東洋、メキシコの品物を売るエキゾチックな店や24時間営業のレストラン等が立ち並び始め、ますますこの地区の若者の数は増えていった[54]。

ヒッピー達は各地にコミューンを形成し、共同生活を送った(中には自然への回帰を訴えて自給自足の生活を送ろうとしたコミューンもあったが成功例は非常に少なかった)。

アシッドテスト
ケン・エルトン・キージー(Kenneth Elton Kesey, 1935年9月17日 - 2001年10月10日)は自らのLSD体験をもとにして書いた『カッコーの巣の上で』がヒットし、その印税でラ・ホンダに土地を買うと、そこには若者達が集まり始めコミューンが形成された。コミューンは「陽気ないたずら者(Merry Pranksters)」と呼ばれ、ドラッグもフリーでどんな人物(ヘルズ・エンジェルズも出入りしていた)でも出入りしていたため、地元住民と対立していた(後に何度も警察に踏み込まれることになる)[55]。

キージーはサンフランシスコ周辺で「あなたはアシッドテストにパスできるか?」とのビラを撒き、アシッドテストを各地で何度も行った。グレイトフル・デッドのジェリー・ガルシアは1回目のアシッドテストの際にキージーと出会い、キージー達はグレイトフル・デッドを様々な面でバックアップをするようになった[56]。しかし後に、キージーは逮捕を逃れるためにメキシコに去ってしまう[56]。

ティモシー・フランシス・リアリーは「Turn on, Tune in, Drop out(LSDに陶酔して意識を拡張せよ、高次元の意識に同調せよ、体制から脱落せよ)」とのスローガンを掲げ、LSDによる意識革命を進めようとした。このことによりリアリーはマスコミの強い批判を浴びたが、これを逆にうまく利用して自分の計画の宣伝をしたため、リアリーの名は全米に知れ渡ることになった。

しかし、ヒッピー達の教祖的存在となり存在感を増していくリアリーは危険思想であると政府から目を付けられ、1968年ラグーナビーチにおいて自動車を運転していたところ、マリファナを使用していたという口実で逮捕されてしまう[57]。リアリーはでっち上げであると訴えたが、その時の同乗者が実際にマリファナやハシシ、LSDを所持していたこと、裁判時にLSDを使用していた(と犯人は犯行現場の壁に血で書いたが、真偽の程は定かではない)人物による殺人事件が起きてしまい、LSDで有名であるリアリーに対して陪審員のイメージが悪化してしまったことにより有罪判決(連邦法と合わせて懲役20年)を受け、上訴なしに拘留されることになってしまった。しかし、リアリーは拘留先であるサン・ルイス・オビスポにあるカリフォルニア男子西収容所からの脱獄を成功させ、さらに名を馳せることになった

1967年1月14日、ヒューマンビーインの集会が行われた。この集会にはティモシー・フランシス・リアリー等のLSDによる意識革命を訴える者やヒッピーの代表、学生運動家、グレイトフル・デッド等のロックバンド、宗教家、ヘルズ・エンジェルズ等、様々な分野からの参加があり、反体制の大集会となった。

マスコミはこの集会やヘイト・アシュベリーを大々的に報道し、ヒッピーが社会現象となった。ドロップアウトをする若者は激増し、若者はヘイト・アシュベリーを目指した。また、ヘイト・アシュベリーやヒッピーを目的とした観光ツアーも行われた。

ヘイト・アシュベリーの若者の数は増え続け(高校生も目立つようになっていた)、1967年の春には10万人以上となっていた。寝るところや食物が不足し、ゴールデンゲートパークは野宿をする者やゴミで溢れた。

サマーオブラヴ委員会は様々なイベントを企画した。ベトナム戦争への抗議集会や松明を持っての行進やロック・フェスティバル等、各地で様々なイベントが行われ、町全体が舞台と化した。今までのヒューマンビーインとは違い、カリスマが観衆を引っ張り、演説をするというよりはそれぞれが集まって、集団として行動するイベントが多くなった。

また、資本主義社会から解放されるために原始共産社会のコミューンを作ることを目指したディガーズにより、無料の食料配給が行われ、ホテルの数十室が開放された。

7月にはイベントやヒッピー達を見に来た観光客も大勢押しかけ、歩くことができないほどの大混雑となった。また、この大勢を相手にしたドラッグマーケットも大きくなり、それをめぐっての抗争も激しくなった。

ゴールデンゲートパークには舞台が作られ、グレイトフル・デッドやジャニス・ジョプリン、ジョージ・ハリスン等のロックバンドやジャズバンド等による演奏や詩の朗読、LSD革命の進行やベトナム戦争への反対を主張する演説等、様々なパフォーマンスが行われた。

9月に入ると若者や観光客の数は大きく減った。そして9月21日にはサマーオブラヴ終結の公式の集会が行われ、サマーオブラヴ終結が宣言された